厚生大臣は1969年11月、食品衛生法施行規則を改正し、食品添加物として使われていたチクロ(サイクラミン酸カルシウム、サイクラミン酸ナトリウム)を別表から削除しました。これは10月に発表されたアメリカ合衆国の発ガン性の疑いを理由とする添加禁止措置を受け、食品衛生調査会の答申を経てなされたものです。これに対し、缶詰業者で る原告が、チクロは通常食品に使用する限り安全で り、厚生大臣の行為は違法で るとして、国家賠償を請求したのが本件です。また原告は、損失補償も請求しました。第1審、控訴審ともに原告の請求を退けています。ここでは裁判所の判断基準に注目して欲しいと思います。
食品の添加物として用いることを目的とする化学的合成品ならびにこれを含む製剤および食品(以下「化学的合成品等」という。)の販売等をなすことが許されるのは、厚生大臣が食品衛生調査会(以下「調査会」という。)の意見をきいたうえ当該化学的合成品等が人の健康を害うおそれのないことを認めたものとしてこれを指定した場合に限ることは、食品衛生法六条の規定に照らし明らかで る。
ところで、右のような指定制度が法令上設けられたのは、自然科学の発達に伴い、多数の化学的合成品が発明され、その中には食品添加物としての有用性が認められて次第に社会一般に広く利用されるものが増加しつつ るので るが、反面、利用される化学的合成品等が人体に対していかなる影響を与えるかについては未知の場合が多く、無条件に使用することは人の健康上極めて危険なことで るので、その安全性が実証されるか、または確認されて初めてその使用を認めるべきものとする公衆衛生上の要請に基づくものと解せられる。
そうだとすると、化学的合成品等が厚生大臣の指定をうけるためには、人の健康を害するおそれのないこと、すなわち無害(安全)で ること、有害性のおそれもないことが積極的に実証または確認されることが必要で つて、そのような要件を具備しない場合に指定のなされることは法律上許されないと解されるので る。したがつて、自然科学上の知見の不備のため、特定の化学的合成品等が人の健康を害するおそれがないものと認められて、いつたんは右指定がなされたとしても、後日、右認定が誤つているものと判定された場合には、当該化学的合成品等については指定の要件が欠缺しているものとして厚生大臣により指定の取消がなされるべきことはいうまでもないことで る。換言すれば、厚生大臣の指定にかかる当該化学的合成品等について右指定の取消がなされるべき要件は、当該化学的合成品等が本来指定をうけるべき要件で る「人の健康を害するおそれのないことの積極的な確認がえられないことに尽きるので つて、指定にかかる当該化学的合成品等について有害で ること、 るいは有害のおそれの ることが確認されなければ指定を取消すことができないというものではないというべきで る。
このことは既に述べたとおり、厚生大臣が特定の化学的合成品等を指定するのは、当該化学的合成品等がもつぱら人の健康上安全で るとの公衆衛生の向上および増進の見地からで つて、右措置にもとづき当該化学的合成品等の製造販売等の、社会経済活動がなされ、右活動により経済的利益が得られたとしても、法律上厚生大臣の右指定措置は右社会経済活動を保障する趣旨を何ら含むものではないのみならず、なにびとといえども、人の健康を害するおそれのないことを積極的に証明、確認しえないような化学的合成品等を製造販売することのできる 利を有しないことからみても、当然というべきで る。
したがつて、厚生大臣のなした本件措置の当否は以上の観点から決せられるべきで つて、有害のおそれの証明がなければ指定取消措置がなしえないとのことを前提とする原告の前記主張は失当といわなければならない。
三 そこで、進んで右の観点から本件措置の当否を検討する。前記第一項記載の当事者間に争いのない事実ならびに〈証拠略〉を総合すると次の事実を認めることができる。
1 サイクラミン酸ナトリウムは昭和三一年五月二五日、サイクラミン酸カルシウムは昭和三六年七月二〇日それぞれ食品添加物として指定された化学合成甘味料で るところ、その甘味度が砂糖の四〇〜六〇倍で、味はさつぱりとしており、苦味も残らず熱にも強いという利点が認められ、ズルチンやサツカリンに優るものとして年々その需要が増加しており、しかも、昭和四二年開催された国連FAO・WHO合同の食品添加物専門家委員会においてもその安全性は一応の評価をうけていたもので る。もつとも同委員会においてもチクロの生体内代謝産物に関する医化学的研究とこれら代謝産物の毒性研究、チクロの長期毒性に関するより詳細な研究が要望されていたのでこれをうけてわが国を含む各国でこれらの研究が実施されていた。
2 ところが、昭和四四年一〇月一八日アメリカ政府(FDA(食品医薬品管理庁)は、1 チクロをGRAS(一般安全)品目より削除すること
2 チクロを含有する人工甘味料を医師の監督下に認められる医薬品の部類に移すこと
3 チクロを含有する大衆向け食品、飲料および医薬品等の製造停止、所定期限までの市場よりの回収等を要請する
旨の発表をなした。アメリカ政府が右のような措置をとつた理由については、右発表と同時に、アボツト社の研究所で行なわれたオーサー博士の動物実験(以下「オーサーの実験ともいう。)、すなわち、長期にわたりラツトにチクロとサツカリンの配合物を一定量(チクロの量一日二、五〇〇mg/kg)投与したところ膀胱がんが発生したという実験結果が前記措置の基本となるもので るという厚生教育省フインチ長官の声明書および保健科学局次官補シユタインフエルト博士の声明書が公表された。
3 わが国政府(厚生省)でも直ちにアメリカから前記動物実験データを取りよせ、チクロの食品添加物としての今後の取扱いについて調査会に検討を依頼したところ、調査会は昭和四四年一〇月二九日厚生大臣に対し、チクロの食品添加物としての使用をすみやかに禁止する措置をとることが適当で るとの答申をした。
そして右答申の理由は大要次のとおりで る。
(一)厚生省において組織された厚生科学研究班の一還で る東京医科歯科大学では、人工流産胎児の培養および成人リンパ球を材料とする試験援内実験において、チクロが両細胞の染色体に異常をきたすことが認められ、これによつて昭和四三年秋、アメリカFDAにおいてなされた実験結果、すなわち、シクロヘキシルアミン(チクロの生体内における主たる代謝産物)を る種のラツトに投与すると、かなりの少量でも睾丸生殖細胞の染色体に異常をきたすという事実はわが国においても確認されたこと。
(二)チクロそのものの次世代に及ぼす彰響については、妊娠母体のマウスにチクロを投与したところ、胎仔に対して悪彰響を与えたとする岩手医大の報告が つたほかは、妊娠ラツトについてチクロにおける催奇形性試験をなした国立衛生試験所でも胎仔に対して奇形はもちろん他の所見においても悪彰響を及ぼさないことが報告され、WHO・FAO合同委員会、一九六八(昭和四三)年アメリカ学術会議でもチクロは催奇形性を含めて次世代に対し悪彰響を及ぼすという証拠はないと評価されていること。
(三)チクロの生体内における代謝産物で るシクロヘキシルアミンの一般毒性についてはその急性毒性が比較的強いこと、慢性毒性についてはまだ充分研究されておらず、したがつて人における安全限界が未定で ることは、成人男子の大部分(実験では五〇名中四三名)について二四時間尿中についてシクロヘキシルアミンの検出が認められる(〇・二〜一二九mg)実態と相まつてチクロの安全性に関し大きな懸念を与えるもので ること(四)ハムスターにサイクラミン酸カルシウム〇・二グラムを数日間投与することによつて組織の石灰化による心筋障害、冠動脈硬化等を生ずるとのアメリカBIOリサーチインステイチユートの実験報告が り、チクロの毒性につき新知見が加わつたこと。
この他、サイクラミン酸ナトリウムを人間が摂取した場合日光皮膚炎を起すという内外の報告も ること。
(五)わが国がん研究所において、予備的研究では るが、サイクラミン酸ナトリウムでは五パーセント、塩酸シクロヘキシルアミンでは一パーセントを含有する飲料水をそれぞれ一〇匹のマウスに長期間与え、前者では一六月後者では一四月経過しているが、今までの死亡例では肉眼的に腫瘍発生を認めていないこと。
(六)ところが、今回アメリカ政府がチクロ使用禁止措置をとるに至つたラツトにおける膀胱がん発生に関するオーサー博士の動物実験によると、サイクラミン酸ナトリウムとサツカリンを一〇対一の割合で含む薬剤の体重一キログラム たり五〇〇・一、〇〇〇・二五〇〇ミリグラム(WHOの人体許容量の五〇倍)を一群雄三五、雌四五匹のラツトに長期間経口投与したところ、二年後において最高投量の群において雄では一二匹中五例に、雌では二二匹中一例に膀胱がんの発生を、また、そのほかに同群の雄に二例の乳頭腫発生が認められた。なお、対照群では一三匹中一例の乳頭腫を認めたのみで り、一、〇〇〇ミリグラム以下では、一例の腫瘍発生をも認めなかつたとの報告が る。このことからすると、検体は二、五〇〇ミリグラムにおいて膀胱腫瘍の発生頻度を高め、かつ、悪性化を著しく促進せしめたものと考えられること。
(七)以上のとおり、チクロの毒性に関しては各種の報告が るが、今回のアメリカ政府がチクロ使用禁止措置をとるに至つたラツトにおける膀胱がん発生の動物実験の結果により、ラツトにおいて発がん性の疑いが濃厚となつた。したがつて、安全性に最重点を置かなければならない食品添加物としてチクロの使用は適当ではないと考えるもので ること 厚生大臣は調査会の以上の答申に従い、同(昭和四四)年一一月五日食品衛生法施行規則および告示を改正し、本件措置をとるに至つた。
以上の事実を認めることができ、右認定を左右するに足りる証拠はない。
四 前項において認定した厚生大臣の本件措置に至る経緯ならびに〈証拠略〉に照らすと調査会が答申し、これを受けて厚生大臣が本件措置をとるに至つた理由のうち最も重視されたのは、東京医科歯科大学におけるチクロについて変異源性(染色体に異常をきたし、突然変異をおこさせる性質)を確認した実験結果ならびにアメリカのアボツト社研究所でオーサー博士の行なつたラツトにおいて膀胱がん発生の認められた実験報告で ることが明らかで る。
原告は、厚生大臣の本件措置は、チクロの発がん性のみを根拠にしたものと主張するが〈証拠略〉に照らしても、また、調査会の前記答申の内容からしても、その挙示されたチクロの各毒性につきその使用を禁止するに至らしめた各理由の重要度においては、それぞれ程度の差の ることは認めえても発がん性以外の毒性について全く使用禁止の理由とはなりえなかつたとするべき根拠は原告において主張する各理由によつてもこれを肯認しがたい。
さらに、告は、右のいわゆるオーサーの実験は、終生実験ではないこと、一種類の動物についてのみ行なわれたことなどの欠陥が るのみならず、右実験の結果によるチクロに発がん性が るなどとは到底いえない不合理なもので ると主張する。
〈証拠略〉により認められる「食品添加物の指定および使用基準の設定、改正について食品衛生調査会において調査審議を行なう際の基準」所定の「慢性毒性試験」の方法によれば、なるほど、動物実験はラツトおよびマウスを用い、平均寿命に近い期間行なうことが望ましいことは明らかで るが、右は くまで方法上の原則を定めただけのことで つて右原則的方法に至らない実験が学問上無意義、無価値とすべき根拠はなんら存しないから実験の方法のみによつて、オーサーの実験結果の価値を否定する原告の主張は失当というべきで る。
次に、原告がオーサーの実験によつてもチクロに発がん性を有するとの証明がなされたとはいえないとする主たる根拠は、右動物実験では、ラツトに毎日チクロを二、五〇〇mg/kg二年間経口投与したというが、これを仮に体重五〇キロの人間に適用するとすると、毎日一二五グラムのチクロを二年間摂取し続けることとなり、これは、昭和四一年におけるわが国のチクロ年間消費量(一人当り約一八〇mg、三・六mg/kg)からするとまさに約七〇〇倍に相当し、いわゆる食品添加物の安全性に関する一〇〇倍原則からみても甚だしく不合理で るというもので る。
〈証拠略〉によれば、たしかに、アメリカ政府厚生教育省フインチ長官および保健科学局次官補シユタインフエルト博士の各声明書にも るとおり、オーサーの実験による結果がチクロの使用により人間にも発がん性を有するとの証明をしたものといえないことは否定できないところで る。
しかしながら、他方シユタインフエルト博士の声明書にも るとおり、法律上、科学上いずれの観点からにもせよ、オーサー実験によるラツトに関するデータを人間に適用しうる可能性の有無の検討をなおざりにすることの許されないこともいうまでもないところで る。
そして、証人蕨岡小太郎の証言によると、オーサーの実験のみによつてはチクロについて人体における発がん性の有することを断定することはできないが、少なくとも発がん性を疑うに足りる物質で るということができるし、かつ、また一般的にいつて染色体に異常をおこさせるいわゆる変異源性物質は発がん性を有するとの科学的知見からしても、既に認定したように、東京医科歯科大学における人工流産胎児の培養細胞および成人リンパ球を材料とする試験管内実験において、チクロが両細胞の染色体に異常をきたすことが確認されている以上、チクロの右のような変異源性発がん性の疑いをますます強くさせる要因になつているものと解することはなんら異とするに足りないので る(なお、オーサーの実験においては動物に投与されたものはチクロとサツカリンの配合物で るが、右実験結果を招来させるにつき役割を果したものが、もつぱらチクロで つて、サツカリンでないことは、証人小島康平の証言および弁論の全趣旨により認められるように、サツカリンについては発がん性が確定的に否定されていることが学界の定説とされていることから肯認されうるもので る。)。
さらに〈証拠略〉により認められるように、発がん性ないし変異源性の疑いの る物質については、閾値の設定が困難で るとするのが医学界の多数意見で ることからみれば原告が強調するごとく、オーサーの実験においてラツトの膀胱腫瘍がチクロの安全基準量の七〇〇倍を投与したことにより初めて発生したとの点も学問上は右実験結果の価値を消極に評価すべき理由とはなりえないので つて、右のような基本的立場は〈証拠略〉により認められるとおり、一九五八(昭和三三)年ローマにおける国連FAO・WHO食品添加物専門家委員会第二回報告「食品添加物の安全性確立のための試験方法」並びにアメリカ政府が採用しているいわゆるデラニークローズ等に示されている安全基準、すなわち、発がん性の証明されたものはいかなる量においても添加物として使用すべきではないとする考え方にも明らかに看取できるもので る(もつとも、右にいう「発がん性の証明」が如何なる内容をいうのかについてはまさに医学上の問題で り、原告の主張するように、これを発がん性が疑問の余地なく医学的に証明されたものと解するのもひとつの立場かもしれないが、〈証拠略〉により認められるように、右「発がん性の証明」を前示オーサーの実験においてラツトの膀胱腫瘍の発生が認められた場合をもこれに当るものとした調査会の立場も学問上は有意義で り、これを非難するのは相当でないというべきで る。) 原告は、さらに、本件措置後、チクロの発がん性につきこれを否定する学者の見解が発表されたことからみても厚生大臣の本件措置は相当でない旨主張する。
なるほど〈証拠略〉によると、昭和四八年一一月七日ハノーバーで開かれた人工甘味料に関する国際シンポジウムにおいて、オランダの国立国民健康協会のフエアミユーレン博士がチクロやサツカリンの過量をマウス六世代に与えたが、何らがんを示すようなものは確認されなかつたこと、アメリカ健康財団のワイスパーガー博士はマウスについて、大阪大学の宮地徹博士、西ドイツがん研究センターのシユメール博士はラツトについてそれぞれ実験をなしたが同様の結論を得たとの発表がなされたこと、昭和五〇年四月九日兵庫県私学会館で行なわれた日本薬理学会総会において、国立衛生試験所の池田良雄ら六名がチクロ、サツカリン、チクロプラスサツカリン等を各飼料に混入し、ラツトについて二八か月にわたり投与実験したところが、肉眼的および組織学的に腫瘍発生を示したものは一例もなかつたとの発表がなされたこと、昭和五一年一月一三日ワシントンにおいて発表された全米がん研究所の専門家委員会のチクロ毒性調査に関する最終報告書によると、チクロに発がん性が ると証明することはできない、少なくとも強力な発がん物質ではないとの報告がなされたこと等の事実を認めることができる。
しかしながら、すでに述べたとおり、アメリカ政府がアボツト社研究所のオーサーの動物実験結果を基礎にチクロの使用禁止措置をとつた際にもフインチ長官らが声明を発表しているように、オーサーの実験結果はチクロについて発がん性の存在を疑わしめるに足りる証拠を提供したに止まるもので つて、チクロ使用による人間の発がん性を立証したものでないことは明らかで るところ、前記の内外における学者、研究者による発表は、アメリカ政府およびわが国調査会が発表したチクロを人間が使用した場合における発がん性のおそれの存在を真向から否定し、右のような疑念をもつことの不当で ることを充分に証明したものとはいまだ到底いえないので る。
すなわち、前掲各証拠によれば、西ドイツのシユメール博士は、人間がチクロを使用するについて充分な安全性を考慮するためにはなお人間について疫学の研究が必要で ること、チクロについては人体内の代謝産物についてなお充分知られていないと述べているしまた、同博士の動物(ラツト)実験においても、四〇ないし四〇〇倍の多量のチクロを使用した結果では るが、膀胱がんの発生を認めたラツト一例が確認されていること、日本薬理学総会で発表された団立衛生試験所の研究においても、チクロおよびチクロプラスサツカリンをそれぞれ投与された各ラツト群には生殖器に強度の萎縮が認められたことが報じられているので るから、これらの研究結果をも附加し検討すれば、チクロの動物実験によつてチクロの発がん性が全く証明されなかつたということは、ただちに、チクロについて発がん性の存在を疑うことの不当性をも立証したものとはいえないと解せざるをえないので る。
却つて、〈証拠略〉によれば、財団法人癌研究所嘱託主任研究員で る蕨岡小太郎は、昭和四四年、四五年にわたり「医薬品食品添加物及びカビ毒の発がん性に関する研究」の一還として、サイクラミン酸ナトリウムおよび塩酸シクロヘキシルアミンの発がん性に関する研究に従事したところ、昭和四六年二月一一日、サイクラミン酸ナトリウム五%(WHO暫定摂取許容量の一〇〇倍)、塩酸シクロヘキシルアミン一%の各水容液をマウス雄各一〇例に飲用させ、それぞれ二年三か月、一年一〇か月までの間に全例死亡したので検討したところ、膀胱腫瘍の発生は認められなかつたが、各群について膀胱上皮に軽度の過形成、非角化性扁平上皮化生が確認されたこと、そして、右にいう非角化性は医学上前がん性の一種とも評価しうるもので ることが認められるので る。
また〈証拠略〉によると、アメリカ政府食品薬品庁長官シユミツト博士は一九七六(昭和五一)年五月一一日「サイクラミン酸塩に関する声明」として、大要、1これまでの動物実験によつても、チクロについて発がん性を証明する充分な根拠をえられなかつたが、実験結果はチクロが潜在的に発がん性が るかもしれないことを示唆し、実験の継続を正当化していること。2 チクロの遺伝学的研究によれば、人間がチクロを経口摂取することにより、チクロないしその代謝産物は、人間の染色体に損傷を与えうるということを示していること3 チクロの大量投与による動物実験によれば、被験動物に睾丸萎縮や血圧上昇をひきおこすことが認められること4 FDA(食品薬品管理庁)は人間に対するチクロの一日摂取容量(ADI)を算定することができるが、右安全許容量は清涼飲料水のような工業化された食品に一般的使用を許可するには十分で り、現時点においては、毎日誰が使用しても安全で ると保証できるような基準量で使用を許可することはできないと述べていることが認められるので る。
五 以上説示したところによれば、厚生大臣はチクロについてなんらかの方法による規制をするが相当というべきで るから、厚生大臣のなした本件措置は、規制したこと自体に関しては正当で つて、違法ではないというべきで る。
六 原告は、規制がされるべきものとしても、厚生大臣のなした本件措置は、一挙に全面禁止をした点において規制の方法が不当で ると主張する。
しかしながら、化学的合成品等についての指定並びに指定取消の前示した趣旨、目的からすれば、厚生大臣としては、当該化学的合成品が指定の要件を欠くと認めるに至つた場合においては、むしろ即時かつ全面的に使用禁止の措置をとるのを原則とすべきもので る。もとより厚生大臣は、人体に対する影響力の度合使用状態等、危険性の程度を勘案して適宣、合目的的に緩和の措置をとることも許されるものというべきで るが、緩和的措置は くまでも危険性の見地から許容される範囲内においてなされるべき例外的なもので るべきで り、右以外の見地、例えば当該化学合成品を使用している業者の利益保護等はいわば一切他事ともいうべきもので つて、これを直接考慮の対象となすべきものでないことはいうまでもない。そうとすれば、当該化学的合成品が指定の要件を欠くと認められる以上は、たとえ緩和的措置をとらなかつたとしても、国民は一般に緩和的措置をとるべきで るとして保護を求める 利、利益を有さず、したがつてその 利、利益を違法に侵害されたとする余地はないものというべきで る。
原告は、厚生大臣が猶予期間の延長措置をとつていることから、本件措置を不当とするので るけれども、〈証拠略〉によれば、厚生大臣は乳幼児の摂取機会が少なく、成人でも多量摂取または常用のおそれがない等国民の健康に支障のない範囲内で、かつ、チクロを含有する旨の標示がなされ、消費者の購買上の選択を容易にする等の条件を附加したうえ本件措置をなすにつき必要最少限度の猶予期間延長措置を講じたもので ることが認められるので つて、猶予期間延長の措置をとつたことは前示説示に適合こそすれ、これを動かすに足りるものではない。
本件措置の方法の違法をいう原告の主張は、帰するところ国民一般の亨有すべき保健衛生上の安全を犠性にして業者の経済的利益を保護すべきで るというに等しく支持することができない。
七 以上の理由により、厚生大臣のなした本件措置が違法で ることを前提とする本件損害賠償請求は、その余の争点につき審究するまでもなく失当としてこれを棄却すべきで る。
(損失補償について)
一 請求原因一項(主位的請求原因一、二項と同じ。)の事実は当事者間に争いがない。
二 原告は、厚生大臣の本件措置がたとえ違法でないとしても、右措置は、原告を含む罐詰業者にのみ社会的に正当な受忍限度を越えた特別の犠性を強いることにより行政目的を達成しようとするもので るから、憲法二九条三項により原告の被つた損害は補償されるべきで ると主張する。
よつて判断するに、すでに説示したとおり、厚生大臣が食品衛生法六条に基づいて化学的合成品等についてなす指定は、当該化学的合成品等の販売等をなすべき 利を保障したものではなく、公衆衛生上の見地からその販売等の禁止を解除したにすぎないもので りそして、右指定は、食品衛生調査会の意見により表明されるところの自然科学上の専門知識を基礎としてなされることが前提とされているので るから、自然科学の発達により従来の知見が訂正されることによつて、これにともない厚生大臣の指定が取消されることの るのはいうをまたないところで る。したがつて、右指定の取消によつて商人の保有する化学的合成品等が値下りし、 るいは販売不能となつたとしても、それは、右商品自体に内在する社会的制約(すなわち厚生大臣の指定のない化学的合成品等は社会生活上有害で ること)から招来される事態で つて、右品を取扱う特定の業者がその保有する商品を社会公共の利益のために低廉もしくは無償で提供するといつた特別の犠性に供された場合とは異なるものと解すべきで る。
原告は、食品添加物として指定をうけた食品の製造販売は国民の本源的な 利・自然 で り、憲法の保障する財産 で るというが、だからといつて、なにびとといえども右指定の取消された食品、すなわち公衆衛生上有害 るいは有害のおそれの るものを製造販売すべき 利を有するものとはいえない。たしかに食品添加物についての指定の取消は不確定性を有することは否定できないが、このことは対象物件の性質上やむをえないことで つて、食品添加物を取扱う業者で る原告にとつては右不可予測性も企業活動一般に伴う危険の一つにすぎないものとして、業務を遂行する以上初めから覚悟し、受忍すべきものというべきで る。してみれば、厚生大臣のなした指定取消により原告が損失を被つたとしても、国がこれに対し損失補償義務を負担すべき理由のないことは明らかで る。 もつとも、本来国に損失補償義務を負担すべきいわれがないにもかかわらず、特別の政策的考慮に基づき損失補償を認めた立法例、例えば伝染病予防法一九条ノ二、結核予防法三一条二項、家畜伝染病予防法五八条等が るが、本件のような場合につき明文の根拠がない以上(憲法二九条三項は私人に課せられる特別の犠性に基づく損失についての補償を定めたもので るから、右にいう明文の根拠になりえないこともちろんで る。)、国に損失補償義務を肯認することはできないものというべきで る。
二 食品衛生法六条の趣旨によれば、化学的合成品たる食品添加物の指定の取消に当つては、当該食品添加物が人の健康を害する虞れのないことについて積極的な確認が得られないというだけの理由で十分で つて、それが人の健康を害する虞れが ることの証明を要するものではないと解される。本件における厚生大臣がチクロについて食品添加物の指定を取消した措置は原判決判示のような食品衛生調査会の答申に基づいてなされたもので つて、チクロが人の健康を害する虞れがないとは認められないとする意味における措置として、食品添加物指定制度の趣旨に適合するものと認められるので り、かつ、右答申の内容からして、科学的根拠が るものということができる。右答申及びこれをうけた本件取消の措置は、オーサーの実験報告を重要な根拠とするもので るが、それのみを根拠としているのではなく、オーサーの実験報告を契機として、チクロに関する従来の知見を再検討し、それらを総合して、なされたもので り、チクロの代謝物で るシクロヘキシルアミンが染色体に異常をおこさせるいわゆる変異源性を有するとの実験結果も、右答申及び措置の一つの重要な根拠となつているので ることは前記答申の内容(〈証拠略〉)、〈証拠略〉により明らかで る。この変異源性の問題は前年の昭和四三年米国FDAによつて発表され、更に厚生省は右措置の六ケ月前の昭和四四年五月にこれについて委嘱研究機関から中間報告を受けていたこと、変異源性を発がん性との相関関係においてとらえるようになつたのは右措置のなされた時期より後の学問的進歩によるもので ることが、〈証拠略〉によつて認められるけれども、それによつて右認定を左右すべきものとは認められない。前記答申及び措置が、オーサーの実験の評価に当り、自然発生がんの存在を無視したものとは認められないし、右実験の前に行われた実験やその後に行われた追試のすべてが発がん性について陰性の結果で つたからといつて、またオーサーの実験における投与量が甚だしく多量で つたからといつて、チクロの食品添加物としての安全性を判断する上において、オーサーの実験報告を無視してよいといえるものでないことは、原判決説示のところから明らかというべきで る。
三 厚生大臣が当初チクロの指定を取消し、その使用禁止の措置をなした時期(昭和四四年一一月五日)とその後使用禁止の猶予期間延長の措置をとつた時期(〈証拠略〉により昭和四五年一月一四日と認められる)との間に、チクロについて新しい知見、資料が得られたものでないことは、前掲〈証拠略〉によつて認められるところで り、延長された猶予期間を当初の措置において定める等の方法をとることも不可能でなかつたと認められるが、どのような規制方法をとるかは、人体に対する危険性の見地から許される範囲内で行政上の裁量に委ねられるところというべきで るから、本件指定取消及びこれに随伴する措置を方法において違法で ると目するに足らない。
四 控訴人はチクロと亜硝酸ナトリウム等の他の食品添加物とで被控訴人の食品行政上の取扱いが区々で ると主張するが、右は本件指定取消の措置を違法とする事由に当らず、また、その主張を右措置がチクロの安全性以外の別の理由でなされた違法なもので るとの主張と考えて見ても、そのような事実を認めるに足りる証拠はない。
五 食品添加物の指定は、これに基づき当該食品添加物を使用して食品の製造、販売をする業者の営業上の利益を保障する趣旨でなされたものではない(なお、被控訴人がチクロ使用を控訴人ら業者に勧奨するような行政指導を行つた事実を認めるに足る証拠はない。原審及び当審における控訴人代表者の供述は右の事実を認めるに十分ではない)。そしてチクロの場合の如く、一旦は食品添加物の指定を受けながら、その後の自然科学の発達によつてその安全性に疑問が抱かれて、指定の取消がなされることが つても、それは、化学的合成品で る食品添加物に本来内在する制約で るというべきで る。従つて、チクロの食品添加物指定を信頼して、チクロを使用して食品の製造、販売をなしていたという控訴人が、右指定の取消によつて、チクロ含有の商品の販売上損失を蒙つたとしても、特別の規定をまたずに、禁反言ないし信義誠実の原則によつて当然に被控訴人が控訴人の損失を補償すべきもので る、とはいえない。また、なにびとも人の健康を害する虞れがないとは認められない食品添加物を使用した食品を販売する 利、自由を有するものではないから、前記のような理由で本件指定が取消されて、控訴人がチクロ含有の食品の販売制限を受けるに至つても、特別な規定をまたずに、公用収用に準ずるものとして、被控訴人に控訴人の損失を補償させるべきで る、とは解し得ない。以上のように解することが憲法二九条三項の要請に反するものとはいえない。